大航海時代の歴史背景

 ヴェネツィアの繁栄と凋落  2
 大航海時代の幕開け ポルトガル史(エンリケ〜バスコ・ダ・ガマ) 
 イスパニア史(コロンブス〜マゼラン)
 ネーデルランド史(独立戦争〜VOCオランダ東インド会社)
 イングランド史 (トラファルガーの戦い〜大英帝国の完成まで)

 中世における地中海交易史
 交易品


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†大航海時代の幕開け ポルトガル史1


ポルトガルの勇躍
 15世紀ヨーロッパで真っ先に外洋へと飛び出していったのはポルトガルの船乗りでした。大国の狭間の小国が一躍大航海時代の主役になった理由は、イベリア半島の最西端に位置するポルトガルが最もアフリカに近かったという地理的な要因のほかに、周辺諸国の政治経済なども大きな影響を及ぼしています。

 当時の一般な統治形態である封建制は、王様が領地や通商の特権や徴税権などを配下の騎士や貴族に与えることで成り立っていました。このシステムの最大の欠点は、国内領土を全部分けてしまった後は恩賞が頭打ちになってしまうことです。そんなわけで、飽くなき領土の拡大を宿命づけられていた封建諸国家は常に領土の拡大を狙って戦争を繰り返していました。

 ポルトガルも同じように大概拡張を義務づけられた封建国家だったのですが、幸か不幸かポルトガルは周囲をぐるっとカスティリアとアラゴン(後に合併してイスパニアになる)といった強力な大国に囲まれていたのです。自国より強力な国に下手に喧嘩を売れば逆に自国が滅んでしまいます。実際1369年フェルナンド王はカスティリア継承戦争に介入して侵攻したものの、たちまち惨敗して逆にリスボンまで攻め込まれてしまってます。東方への進路を完全に塞がれてしまった結果、ポルトガルは海の向こうのアフリカ進出に活路を見いだそうとするのです。

 経済的な視点からは封建制ヨーロッパ経済が破綻寸前に行き詰まっていたことがあげられます。
  農業技術の向上で食糧事情が良くなって人口が増えたのはいいのですが、その増えた人口を食わせるだけの土地が無くなってしまい、土地不足と物価の高騰で市民生活が崩壊してしまいました。そんななかで封建領主は宮廷の維持費と軍事費を全部領民に押し付けたので、逃げ出した農民は都市に流れ込みます。すると都市は人口過密状態になり、従って衛生状態も治安も悪化し、結果ペストが流行ってさらに経済が冷え込むという悪循環が繰り返されます。まともな交易がマヒしていく中で、人々は東方の黄金や香辛料といったおとぎ話みたいな一獲千金を夢見るようになります。こうして「海の向こうの黄金郷」を目指す気風が生まれていくのです。

  ヨーロッパ全体が封建制の凋落による経済の行き詰まりにあえぐ中でポルトガルだけが幸運にも対外進出の動機と実行力の両方を手にすることができました。同じく不況に喘いでいたイギリスやスペインは王位継承権で内紛をかかえていて海外に艦隊を出す余裕がなく、逆に世界で1番余裕があったヴェネチアはイスラムとの香料交易で儲かっていたのでいまさら命がけで西の海へ行く理由がありませんでした。
かくして、ヨーロッパ列強を出し抜いて小国ポルトガルが真っ先に大海原へ漕ぎ出していくのです。
 その第一歩は"航海王子"エンリケによって切り開かれます。



エンリケの航海事業

航海王子エンリケ。でも自分は1度もアフリカ探検航海に行ってません。
 ポルトガル商人がアフリカに求めたのは「金」と「奴隷」でした。アフリカの金はイスラム都市のセウタを通して輸入されていて、ここを占領すれば金が独り占めできるだろうとセウタ侵攻が計画されます。これがポルトガル対外進出のプロローグになります。
  1415年、ポルトガル王家の三男であったエンリケを最高司令官として、200隻の軍船に2万の兵員を動員する国運をかけた強襲作戦が実施され、大成功します。

 こうしてセウタはポルトガルのものになったものの、肝心の黄金はセウタにはありませんでした。イスラム商人にすれば侵略者を儲けさせてやる道理なんて無いので、金はセウタを迂回して別のアフリカ沿岸都市を通るようになったからです。金のかわりにイスラム諸国はセウタに大軍を派遣し毎日のように攻撃させました。ポルトガルは海の向こうの僻地の防衛に多大な出費を強いられるようになり、かといってセウタは「崇高な十字軍」としてローマ教皇にお墨付きを貰っている手前、勝手に放棄することも許されず、セウタは毎年大赤字を出す不良債権としてポルトガル財政の重荷になってしまうのです。





悪魔のボジャドール岬を超える
 
 セウタ攻略によってもたらされた結果の中でたったひとつ幸運だったのは、防衛の責任者になったエンリケに艦隊が与えられたことでしょう。この艦隊によってエンリケはアフリカの南を目指すことができるようになります。
 まず、エンリケはマディラ諸島やカナリア諸島への植民を行います。ところがカナリア諸島は既にカスティリアが領有権を主張していた地域とバッティングしてしまい、領有権の正当性をめぐって公会議で大論争になってしまいます。しかたなくエンリケはまだ誰も領有権を主張しない、したがって誰も行ったことのない領域を求め、カナリア諸島をさらに南下することを命じるのです。


ラスパルマスのわずかに南にあるボジャドール岬。
ここを超えると突如として風向きが逆風に変わることなどから、世界の果てだと信じられていた。

 ただ、その頃の船乗りたちにとって、カナリア諸島の南は未知の世界であり、ボジャドール岬はこの世と地獄の境界線とされていました。ボジャドールの先の海は水深は30センチしかなく、海面はぐらぐらと煮え立っているので行ったら最後2度と生きて帰れない「暗黒海域」であるとだれもが信じていたのです。

  そんななかでエンリケは従士エアネスに、死の海域へ行ってこいと命令を下します。彼は仕方なく出かけたものの、やっぱり怖じ気づいてしまいカナリア諸島のちょっと先で逃げ帰ってしまい、宮廷であれやこれやと弁明しました。そんなエアネスにエンリケが何をしたかというと「生きて帰れないなんて一部の意見を盲信してるのはバカ者だ」と面罵したのです。自分で出かけるわけじゃないエンリケは気楽で強気です。
 名誉を重んじるエアネスは「もう一度失敗したら2度と主の前に姿を晒すまい」と決意表敬をし、勇気を振り絞ってもう一度航海に出かけます。そして、1434年、彼はボジャドール岬を超え、英雄として生還するのです。

  エアネスはお土産に「復活草」という、乾期には丸い枯草玉になってころころと転がり雨期になると芽が出てくるという変な草を持ち帰りました。今日、復活草は盆栽ファンにはたまらないマストアイテムだそうです。


ディエゴ・カンとバルトロメオ・ディアス
 エンリケの死後、彼の息子ジョアンが航海事業の後を継ぎました。やがて国王になった彼は父の開拓した航路のさらに南を目指します。
 ジョアン2世の情熱の裏にあったのは、ひとつはアフリカ南端をまわって香料の産地インドにたどり着けるのではないかという希望的観測です。ただ、この学説は当時の天文学の権威プトレマイオスが真っ向から否定していたので、航海の動機としては相当に不安です。ポルトガルの試みは今日で言えば宇宙人探しに文部科学省が巨額の予算を組むような話です。もうひとつの動機はアフリカには伝説のキリスト教徒「プレスタージョン」の国があるという伝説でした。リアリティーとしてはこっちのほうが強かったようです。  
 そんなわけで、ディエゴ・カンという提督が1482年と1485年の2回の航海で、一気に1400キロ近くも航路を延ばし記念の石柱を立てます。アフリカの先端までもうすこしです。
 そして、そのあとを継いでの1487年、バルトロメオ・ディアスが2隻のキャラベル船と1隻の輸送船でリスボンを出港します。ディアスはディエゴ・カンの到達した地点をさらに南下し、そこで猛烈な嵐に遭遇して海をさまよい、陸地を見失なってしまいました。
 当時のアフリカ航海士の定石として「迷ったらとりあえず東」というのがありました。東に行けばアフリカ沿岸のどこかしらにたどり着くからです。ディアスも同じように航路を東にとりますが、おかしなことにどこまでいっても一向に陸が見えません。勘の冴えていたディアスは「もしかしたら俺達はアフリカの先端に到達したのかも知れない」と仮定し、進路を北にとります。これは大きな賭けで、失敗したら飢えと渇きで艦隊が全滅です。乗組員達は不安になり、提督に元来た道を引き返すようにと迫ります。
 そのときでした。マストの見張り台から「前方に陸地発見!!」の報がとどいたのです。
 ディアスはここに石柱を立て、度重なる試練を乗り越えた感慨を込めて「嵐の岬」と名付けます。でも帰国した彼から報告を受けた国王
ジョアン2世は「嵐の岬じゃ縁起悪いじゃん」と、あっさりと「喜望峰」に改名してしまいました。親子揃って現場に冷たい人です。


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