†大航海時代の幕開け ポルトガル史2
ジョアン2世の後悔
さて、バルトロメオ・ディアスのアフリカ南端到達に沸き立つリスボン王宮を、一人の若者が門を叩きます。その男は「インドへの航路を知っているから資金を出せ」と言います。でも、せっかくアフリカルートの目処がたったときに、得体のしれないジェノバから流れてきた若造なんかに構ういわれはありまん。ジョアン王はその青年を相手にせず門前払いにしました。で、その青年こそがクリストファーコロンブスだったのです。
1493年、コロンブスがライバルの隣国イスパニアの支援で「インド」に到達して凱旋したとの報告を、ジョアン王はどんな想いで聞いたのでしょう。逃がした魚は大きいのですが、今度ばかりは掛け値なしに最大級でしょう。それでも希代の英雄への敬意はあったので王はコロンブスを宮廷に招いて歓待したのですが、当のコロンブスは下積み時代の仕打ちを忘れていませんでしたし、それを忘れてやるほど大人でもなかったので、パーティーの席上のスピーチで王様を「うははざまあみろこの野郎」と嘲笑しました。
このときばかりはジョアンもコロンブスを本気でぶち殺してやろうかと思ったそうです。でも殺しちゃったらイスパニアと全面戦争になりますので、なんとか思いとどまり、ポルトガル王室の怨念は喜望峰ルートでのインド航路開拓へと向けられます。
ガマ、幸運王に拾われる
ポルトガルがインドにたどり着くには1497年を待たねばなりません。バルトロメオディアスの嵐の岬(喜望峰)到達から10年、コロンブスの「インド」到着から5年後です。
このときにはジョアン王は病死してしまっていて、遠縁のマヌエルが王位を継いでいました。中世ヨーロッパの王様にはそのキャラクターに応じて「何とか王」というニックネームがついていました。有名どころでは獅子心王リチャードとか、太陽王ルイ14世とか。先代のジョアン2世には「完璧王」というこれ以上ない尊称が贈られています。で後継のマヌエルは「幸運王」でした。ボンクラだけど運だけは良かった、ということでしょうか。
ある日、マヌエル王はバルコニーから庭をながめていました。すると、王の眼下をふらふらっとバスコ・ダ・ガマが通りかかります。
王様ははっとひらめきました。「そーだ、あいつに遠征艦隊の提督やらせたろ」と。30過ぎの町役人のせがれが鶴の一声で大抜擢です。
こうして歴史に残るバスコ・ダ・ガマの大航海がはじまっちゃうのです。
バスコ・ダ・ガマがどんな人物かを一言で言えば「いろいろやってくれる人」です。
まずガマはカナリア諸島のちょっと南で霧に包まれて僚艦と進路を見失います。この時代カナリア諸島で迷う船乗りはそうそういません。
ヴェルデ岬で再合流することに成功したガマは、なぜか進路を南南西に取ります。ガマはギニア湾周辺の無風海域をぐるっと迂回してまっすぐ喜望峰を目指そうとしていたのですが、アフリカ沿岸に沿って船を進めるのが定石だった時代にこの航法は相当かたやぶりでした。それでどれだけの効果があったかはわかりませんが、ガマの艦隊は3ヶ月ものあいだ、四方陸地が見えない状態(当時の感覚では非常事態)で航海を続けることになりました。ちなみにコロンブスがアメリカにたどり着くまでがせいぜい1ヶ月です。よく反乱が起こらなかったものです。
飢えと壊血病でボロボロになったガマの艦隊は何とか喜望峰にたどりつき、原住民との交易に成功します。手に入れたのはウシ、象牙の腕輪、赤い帽子、小さな鈴です。ガマはよほど嬉しかったのか、原住民とダンスを踊ったりしました。
ガマ、東アフリカでケンカを売る
喜望峰を越えたガマの艦隊は北を目指します。伝説のキリスト教徒「プレスタージョン」の国の末裔と思われていたエチオピア帝国の町・ソファラを越え、艦隊はモザンビークに到着します。そこはアラブ商人によって広められたイスラム教文化圏の町でした。
モザンビークの人々は当初ガマの艦隊を紅海から来た得意先のイスラム教徒だと思って歓迎したようです。そこでガマが何をしたかというと「われわれは邪教イスラムを成敗しに来たキリスト教徒であるぞ」と高らかに宣言しちゃったのです。たちまちにしてみんなの顔が険しくなっていきます。バスコ・ダ・ガマは空気が読めない人だったのです。
ガマはモザンビークの1300キロ北、ケニアのモンパサでも同じことをしてわざわざ住民感情を逆なでします。で、そのすぐとなりのマリンディでもくりかえすのですが、マリンディの王様は奇特な人で、なぜかその変人ガマとその部下たちをお気に召してしまい、インドへの航路を知る最高の達人航海士を貸してくれました。
ガマ、インドで大恥をかく
1498年5月21日。イスラムの貿易船で賑わうカリカットにボロクズの様な船団が漂着しました。彼らは遠くキリスト教の国から香辛料を求めてやってきた使節団だといいます。提督の名はバスコ・ダ・ガマ。不思議な名前をなのり、不思議な言語を喋ります。それにしても彼らはものすごく臭いし髪も伸び放題で無精ヒゲだらけ、おまけに服も乞食さながらです。彼らは彼らの王からの贈り物だと、ニヤニヤしながら二束三文のガラクタを広げてみせました。
これがインド人から見たポルトガル人とのファーストコンタクトです。
ようやくインドにたどり着いたガマの艦隊だったのですが、そこはイスラム教徒がずっと以前から交易を独占していて新規の取引先が入り込める余地はほとんどありませんでした。しかもガマが持ち込んだ交易品はオリーブ油、蜂蜜、毛織物、サンゴの数珠と、アフリカで手に入れた鈴と赤い帽子しかありません。こんなものを差し出しても黄金と宝石に囲まれて暮らしていたインドのマハラジャに爆笑されただけでした。ガマはこれらの交易品をなんとか市場でたたき売って、その代金でコショウを買い付けようとしたようです。命がけで何千キロも海を越えてたどり着いた結果がコレなのでかなり惨めです。
ガマの一行にはその他にも屈辱的なエピソードが続き、落胆して帰ろうかという最後の最後のになって、マハラジャからの親書がわたされます。
曰く「我が国の豊富なコショウやクローブは金銀サンゴとなら交換する」と。いや、ほんとよかったですね。
こうして、とにもかくにもインド=ヨーロッパ間の航路は開かれ、ポルトガルは大航海時代のトップランナーに躍り出ることになりました。
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